古くなった未来予想図をいったん捨ててみる効果
こんにちはRenです。最近、頭の中の断捨離について考えたことがあったので、今回はそれをお伝えしますね。
僕自身、断捨離という言葉や実践について全面的に肯定しているわけではないし、そもそも「物を捨てて部屋も気持ちもすっきりしよう」という以上のイメージは持てていないということを前提として、軽くお話ししてみます。
捨てて得られるものってなんだろう
断捨離って言葉をあらためて見てみると、断つ、捨てる、離れるという3つの漢字からできています。
ただ「捨てる」だけじゃないんですよね。
これはそれぞれ一文字ずつ、入ってくるものを断つ、あるものを捨てる、物への執着から離れるということを表しているのだと、どこかのブログで読みました。
これって、断捨離することによって、あきらかになにか新しいものを獲得しようとしていますよね。
新しいものというか、新しい精神の状態というか。
物を買ってきたり現に所有していたり、物欲があったりすることって、それ自体は自然なことであって、別に悪いことではないですもんね。
だからきっと断捨離って、決して少なくない人にとって、自己実現のひとつのツールになってるんだと思うんです。物を捨てることで現れる、新しい自分の姿に対する期待があると思うんです。
でも別にそれを批判したいってことではありません。
ただ、物を捨てることで得られる自分の新しい状態がどんなものか逐一具体的に考えることなしには、期待通りそこにたどり着けるとは限らない、と感じるんです。
途中だけをリセットしたい
Googleマップやカーナビに目的地を設定すると、同じ目的地にたどり着くための複数のルートを提示してくれます。
要は最近、それと同じことが頭の中の断捨離でしやすくなるんじゃないかなと僕は思ったのです。
具体的な目的地は変更しないで、途中のルートだけを変更できる効果、そんなものが脳内断捨離でできるんじゃないかということです。
物を捨ててしがらみをなくしてフットワークを軽くしようという試みは、Googleマップで言えばランダムな土地にペグマンを落下させて、新しいなにかを発見しようという遊びに似ています。
現状をリセットしてゼロから新しい関係性を探しに行こうという、自分探しの旅にも似ていますね。
ただ急いで付け加えれば、僕は若者の自分探しについては肯定派です。いや若者じゃなくても。
精神的に未成熟な人間の選びがちなことという批判には半分だけ賛同しますが、むしろ人の社会人としての成熟にとって、必要不可欠な過程だと思っています。
社会の中でたまたま自らの放り込まれた状況から偶然の縁を見つけてまだ見ぬ自己を実現していけばいいという論は美しいものですが、その社会が現状では、パワーの強いものが弱いものをさらに虐げてその労働力や能力を収奪する色合いが濃くなっている以上、豊かな時代にそれこそたまたま自己実現できた人の処世訓の響きが強いです。
話がそれましたが、断捨離することで現状をリセットするのではなく、目標は変えずにそこまでのルートをリセットするんだというイメージを持ってみよう、というのが僕の今回の提案です。
未来予想図から解き放たれる
「いつか使えそうなもの」を減らすと、物理的な空間が空くと同時に、また別の可能性が生まれますよね。
たとえば、いつか着たくて残してあったコートを捨てると、クロゼットのスペースが空くのと同時にそれを着ている未来の自分が消えて、未来の可能性の中に別のアウターを着ている自分が生まれます。
いつかまたやるだろうゲームや見るだろうDVDを捨てると、それをやったり見たりする可能性が消えて、その分だけ未来にスペースが空きます。
着るつもり、やるつもり、見るつもり、読むつもり。
「つもり」を捨てると、未来予想図に何も書かれていない新しい空間が現れるんですよ。
大事なのは、それが自分が予定している楽しい未来を捨てることなのか、それとも未来に新しいスペースを空けることなのか、ひとつひとつ検討するということですね。
その未来の予定リストの棚卸し作業をすることで、自分の未来に期待できる水準がましなものになっていくということも、断捨離の効果なんでしょう。
でも、その未来の予定リストのリフレッシュを、物を捨てることに頼らず効果的に行う方法はないか。
なら、脳内で断捨離してみたらどうだろう。
未来は古くなる
みなさんも、自分がいつかしたいこと、将来の夢や目標を持っているはずです。
でもそれは今すぐ簡単に実現できないからこそ夢なんですね。
期待や夢は長い間持ち続けていると、その夢自体が知らず知らずのうちに古くなっていくし、そこへ至る道のイメージも固定化しています。
たとえば長いあいだ漫画家になりたいと思っている人が、自作を完成させてから出版社に原稿を持ち込む場面を今でも心に思い描いているとしたら、どうでしょうか。
実際にはブログやSNSで自作を連載することで大勢の読者や編集者の目に留まるというルートのほうが、今はリアルなのかもしれない。
そんなことって、わりとよくあることなんじゃないかと思うんです。
新しい快適なバイパスができているのに、古いカーナビが以前の細道しか表示しないようなことが。
実験室のマウスが一度覚えた迷路の抜け方をそれ以降なんどでも繰り返すように、あなたも同じ夢路だけをたどり続けているってことはないですか?
別の近道があるのはわかっているのに、途中まで歩いてしまった道に固執しているってことはないですか?
リアルな夢の現在地や、そこに至る最適なルートは、あなたが昔考えたところから微妙に移動しているかもしれません。
一晩だけ夢を捨ててみる
夢をリフレッシュするために、一晩だけその夢を捨ててみるのは効果的かもしれません。
この作業は、夢や将来の目標達成のために今やっていることをいったん否定することでもあります。だからあくまでも仮に、です。
夜寝る前にじっくり考えてみましょう。
この夢やプランが達成できなくても、それの代わりになるものや別の手段って実はあるんじゃないか、そう考えてみるのです。
ただ、人は夢そのものはもちろん、そのために今進んでいるルートさえなかなか捨てたり変えたりすることはできません。
逆説的ですが、その道を進むために努力が必要であればあるほど、そうなのです。
これは、これまで支払ってきた労力(サンクコスト)を捨てられないといったほうがしっくりくるかもしれませんね。
でも仮に捨ててみることで、これまでイメージしてきたものとはまた別の道、別のドアが見えてきます。
大きな夢のうち、絶対に未来の予定から捨てられない部分、または捨てられない要素はどこなのか。それを明らかにしてみることは無駄なことではありません。
この夢が持つどんなエッセンス(たとえば金銭や人間関係です)に惹かれて、自分はそれを心にずっと持っていたのか。
そもそも別のことを実現することによっても、そのエッセンスは手に入るのではないか。
いったん夢を捨ててみることでそこさえ明確になれば、そこへ至る道は多くの場合、別にも探せるし、新しく見つけたほうが近道であることも多いと思うのです。
まとめ・脳内断捨離の効果
それが自分にとって大事なものであればあるほど、「きっとそうするつもり」をいったん捨ててみることには価値があるんじゃないかと思います。
すでにその途中までは進んできてしまった未来像をもう一度見直して、目標や夢を手に取りなおすことにつながるからですね。
ためしに一晩、自分の将来に抱いていたイメージをきっぱり捨ててみると、何日か経ってから突然、夢を実現するためのもっといい方法を思いついたりします。
あと脱線して書いてしまった自分探し。揶揄されがちだしその理由も十分わかるんだけど、基本的に他人はあなたのためになにも探してくれませんし、一箇所で頑張っていれば誰かが見つけてくれるはずという幻想にも期待しないほうがいいです。
自分のことだから自分で探そう、そのためにいろいろ手を出そう。それくらいの軽い気持ちでなんでもやってみたほうがいいんじゃないかと僕は思っています。